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2017年6月22日 (木)

西宮今と昔~爆弾穴池でカエルとり~

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これは昭和23年の航空写真です。甲子園球場の南側に海軍の飛行場と川西航空の鳴尾工場が見えます。

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 先ほどの写真を今の航空写真と重ねますと昔の海岸線が内陸にあることが分かります。鳴尾浜埋め立て地ができたからです。そこで、昔の痕跡がないか鳴尾工場(今、甲子園自動車教習所)へ行ってきました。

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 ありました。古い堤防跡です。堤防の北も南も今では陸地です。

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 昭和23年、鳴尾東小学校は見えます。南中学校は当然ですが、浜甲子園中学校や西宮東高校は滑走路の上で、存在していません。

 

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私が自然好きになった鳴尾工場跡地の無数の池は、実は1トン爆弾が

つくった穴だったことが分かります。この穴でカエル取りやヘビ取り、トンボ取りをしました。

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 手前右側に甲子園球場、その向こう(現在、浜甲子園団地等)は海軍の基地と滑走路です。陸軍の高射砲陣地もありました。

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 川西航空がつくった紫電改。鳴尾工場は紫電改ではなく二式飛行艇をつくっていました。これは全長40mの強大な飛行艇。紫電改や二式飛行艇の性能は恐るべきもので、性能は知りたい人は調べてください。

【お年寄りが語った鳴尾空襲の体験日誌】

西宮鳴尾川西航空工場へのB29爆撃での話です。この声を風化させたら、あきません。
 1945年6月9日朝、約100機のB29の急襲を受けた。この空襲で工場は稼働不能に陥った。このときの様子を当時、徴用の工員であった南野武衛さんは次のように語られました。
 「あの日、いつものように屋上に上がりかけたら、本社の技師が『今日はわしらがやる。』と被害の確認を変わってくれたんや。事務所から門までの約100メートルを走って逃げていたら、急に『ザーッ』という夕立のような音がした。1トン爆弾が降ってきたんやね。門に出たところの電柱の陰に目と耳を押さえて伏せた途端、雷が数百個、落ちたようなものすごい音がして、吹き飛ばされた。しばらくして気がつくと、あたりはもうもうたる土煙で、何が何だかよくわからん。防空壕に飛び込みながら避難を続けた。何時間かたって工場に戻ると、あっちで火が上がり、こっちでビルが壊れて、そりゃ惨たんたるもんやった。同じ事務所に仲の良かった新婚間もない工員がいてね、『俺は嫁にぞうりをひもで足に結んでもらっている。動きやすいから、あわてなくても大丈夫』と、私を先に送り出してくれたんやわ。彼は門のそばの防空壕の入り口で、全身ザクロみたいになって死んでいた。」

 西宮の地域誌「宮っ子」掲載記事

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総務省に残された西宮空襲の記録

 昭和17(1942)年B25爆撃機が本土に初空襲するに及んで、阪神工業地帯に位置する西宮市民の不安は一層深刻になっていく。戦況悪化に伴い一億総武装が呼号される中、12歳以上の女子勤労挺身隊が組織され、川西航空機(株)に動員された。昭和20(1945)年には建物疎開が始まり、6,000人以上の学童が岡山県下へ強制疎開させられた。

 重要工業都市西宮は5回に及ぶ空襲を受け、市街地の大部分が焼失するという壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出した。

第1回空襲=昭和20(1945)年5月11日

 B29(アメリカ長距離爆撃機)約60機が午前中阪神地区に来襲し、西宮市の桜谷町、越水町・若松町・分銅町・末広町・千歳町・寿町などの各方面に爆弾を投下した。

第2回空襲=6月5日

 B29約350機が、午前7時ごろから10ないし30機の編隊をもって紀伊水道から阪神地区に侵入し、西宮市では川西町・霞原町・川東町・宮西町・荒戎町・市庭町などに焼夷弾攻撃を加えた。ついで6月9日にはB29約100機が主として鳴尾村に来襲した。そのため川西航空機鳴尾製作所では建物被害が60%にも達し、豊年製油鳴尾工場では油槽が全部破壊されて操業不能におちいり、昭和電極鳴尾工場でも若干の被害があった。

第3回空襲=6月15日

 B29約100機が少数の小型機をともない、約1時間にわたって主として大阪付近に焼夷弾攻撃を加えた。西宮市でも津門稲荷町・同仁辺町・同宝津町方面が罹災し、鳴尾村も被害を受けた。

第4回空襲=7月24日

 B29と小型機との計約150機によって爆弾が投下され、20機ないし40機の編隊による波状攻撃が加えられた。爆撃目標が川西航空機宝塚工場にあったので本市では仁川・段上・神呪方面に被害をだした。

第5回空襲=8月5日夜半から6日

 8月5日午後10時ころ空襲警報が発令されたが、これはまもなく解除された。ところが午後12時前になって再び警戒警報が出され、ついで空襲警報が発令され数機編隊で波状攻撃が加えられ、文字どおり焼夷弾・爆弾の雨がふった。火柱は市中いたるところに立ちのぼり、猛烈な火炎が夜空をこがして、爆発音や対空砲火がとどろいた。市民は防火にめざましい活動を示したが物量をほこる波状攻撃に対しては、ほとんど効果を挙げえなかった。こうして恐怖の一夜が明けると、市の南部市街地はほとんど全滅するという悲惨な姿に変わっていた。

 これらの数次にわたる空襲による西宮市の罹災面積は全市面積の18.4%にのぼった。兵庫県下の戦災都市のうち、面積では神戸市についで第2位を占め、第3位は尼崎市であった。本市の被害がいかに甚大であったかをうかがうことができる。

 西宮神社は8月6日の第5回空襲によって貴重な文化財を失った。境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上が落下し、国宝建造物指定の三連春日造り本殿が全焼した。

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